南濱墓地 墓石調査 Fブロック
まずは配置図を作成しました。
各列をA~Vとしてそれぞれの墓石に番号をふって A-3 のように区別します。(あ~面倒だなあ)
青い四角は一族墓で、現在も祀られています。他に祀られているのは小数です。
Fブロックは刻字を確認できる範囲の全てが天満宮神主だった滋岡しげおか家の墓です。
F-1 八角の墓石が滋岡一族のなかで最も古いものです。
「延寳六戌午年(1678) 従四位下刑部少輔菅原至長朝臣 四月廿三日」
竿石の割りに台も水盤も小さく、納まりが悪いです。
この人物を調べると意外な発見が
「なにわ・大阪文化遺産学叢書16」
滋岡刑部少輔菅原至長は勅命に依て神主職となつて下向した。
是れが万治元年(1658)五月二十日で、 主上の御手づから、 菅公の御神影と、先帝御陽成院天皇の御宸翰及び
『天満大自在. 天神宮』と御書きになつた御神号とを滋岡に賜はりました。
「大阪天満宮御文庫のこと」に天満宮の神主の系譜がありました。
神原家が3代 景次-景秋-三春(明暦3没)
そのあと、東坊城長維の次男が高辻豊長の猶子となって滋岡至長として下坂し
明暦4年(1658)に神主に就任する。
至長ー長祇ー業長
L辰長ー長房
L強長
L長昌ー芳長
L長棟
L功長ー長養ー従長(大正4没)
従長のあとは寺井氏が神主を現在まで引き継いでいます。
(従長の孫の長平は東京に住んでいたがH17年に亡くなっている)
「大阪天満宮史の研究」思文閣出版に家系図がありました。
①至長ー②長祇ー③業長
L④辰長ー⑤長房
L⑥強長
L⑦長昌ー⑧芳長
L⑨長棟
L⑩功長ー長養ー⑪従長
つまり、この墓は天満天神の4代目神主(滋岡家としては初代神主)のものだったのです。
滋岡家はその後代々神主を継ぐことになります。
(天満宮では「かんぬし」ではなく「しんしゅ」と呼びます)
翻って、この墓地には菅原・滋岡の一族の墓が多数残っています。
残念ながら家系図と墓をあわせて調べた資料は見つかりませんでした。
公卿類別譜に次のような系図があります。ですが、これは間違いです。
至長━長祇┳業長(従五位下。天和2(1682)年生
┃ 享保2年3月16日(1717年4月27日)卒)
┗辰長┳長房(従五位上。上総介。寛保元(1741)年生。
┃ 文化元年10月14日(1804年11月15日)卒)
┗強長━長昌┳芳長(上野介。従五位上。
┃ 天明4(1784)年生。
┃ 文化11年6月11日(1814年7月27日)卒)
┗長棟━功長━孝長━従長
F-2 左側の墓にも注目しました。
正面には「従五位上行中務少輔菅原朝臣長祇之墓」とあり、これは5代目になります。
右側面には 延享三丙寅年七月(1746)
八角の台座は珍しく、何の意味があるのでしょうか。滋岡家と何か関係があるのか、それとも天満宮に関係があるのか。
右から順に
F-3 正面 永松院心樹霊岒大姉
右側面 元●十●●年
天満宮研究では、永松院は至長の妻だそうです。
元号で最初の字が「元」なのは3つあり
元禄 1688~1704 これになります
元文 1736~1741
元治 1864~1865
F-4 正面 朝散大夫菅原業長朝臣墓
右側面 享保二丁酉 三月十六日(1717)
裏面 滋岡?
六代目になります。
F-5 立派な花崗岩の墓で
正面 ●●大夫従四位下菅原辰長朝臣
右側面 寳暦九巳卯年●七月四日
F-7 1つ挟んでまったく同じデザインの墓で「●●●●●●菅原朝臣強長墓」です。
F-8 その左に少し見えているのが「菅原朝臣功長翁命墓」で8代目になります。
明治30年8月に孫(多分従長)が建てました。
F-6 これも菅原一族の墓で正面には「芳心院之墓」
側面には「哀子 菅原朝臣長房 建立」とあります。台座の立派さに比べて竿石がいやに貧弱です。
芳心院は長房の母になるわけです。 哀子という表現はたまに見ます。
この墓は辰長と強長の間に置かれています。
天満宮研究では、芳心院は辰長の妻静だそうです。
F-9 かなり変わったデザインで、変形の自然石の上に竿石と台座が別々に置かれています。
台座正面には「滋岡長養墓」 功長の子供で9代目。
竿石の「従五位下陸奥守栂藁長養」の両側には和歌が刻まれています。読めません
天満宮研究では「よしや身はおちなくとても大君の醜のみたてとなりて消えなむ」
とあるそうですが・・・
天保四年十一月十日生
嘉永三年六月三日従五位下陸奥守
嘉永六年七月廿三日権神主
明治十七年八月廿七日没
従って「大君」は明治天皇を指します。
長養は権神主にはなったものの、なぜか引退し和歌と国学にのめり込みます。
神主は長養を飛ばして従長が引き継ぎます。
女性3人の墓が並びます。右から順に
F-10 「中心三栗刀自墓」●約滋岡家
刀自とじは女性の戸主や家事一般をとりしきる主婦のことを指します。
裏面には 天満社旧社務人滋岡孝長妻
稱栗野和州郡山旧領主松平
甲斐守分家柳澤新五郎女明
治七年甲戌八月廿九日没行
年三十七年八月葬濱村
滋岡孝長(長養)は天満宮の神主ではなく栗野は自分の出自に相当な誇りを持っていたようです。
本業(神主)をおろそかにする夫は横に置いて、家事を仕切る姿が浮かびます。
天満宮研究では、刀自は孝長(長養)の妻栗野だそうです。
長養の2番目の妻栗野
大和郡山藩柳沢新五郎の娘
天保八年生
文久元年六月廿八日嫁
明治三十七年十二月十八日没
F-11 「藤原威子墓」 滋岡家
藤原姓の俗名のまま滋岡の墓として葬る意図は何なのでしょう?
裏面には文化九年四月廿四日卒とあります。
天満宮研究では、威子は芳長の後妻(前妻は16歳で病死)だそうです。
威子は京都の正二位権中納言池尻暉房の娘です。
面白いのは墓は寺町の寒山寺だと。南濱より近いので、なぜ2つ建てたのでしょう。
寒山寺は戦後の高速道路建設で箕面に移転しました。
F-12 「達姫墓」
右側面に 寛延●●●●
●●●●●●
左側面に ●●●●●●●●子
滋岡右京大夫辰長●
公家の家系を調べると、高倉(藪)家の33代保季の側室に辰長の娘がいました(名前は不明)。
公家桜井家2代兼供の子であった辰長が滋岡に養子で入っています。
天満宮研究では、達姫は辰長と芳心院の娘だそうです。
ですが、こんなことが書かれています。
元文四年七月九日生 (1739)
延享三年十月廿五日長谷範昌の猶子(1746)
寛延元年閏十月五日没 (1748)
どこかへ嫁ぐために長谷範昌の猶子となったのにわずか2年後に9歳で亡くなるので、辰長の悲しみが想像できます。
Fブロックの裏側です。
裏側の続きです。
F-15 「滋岡兼松」は戒名に童子がついているので若くして亡くなっています。
F-16 花崗岩の低い墓は「滋岡従長霊」と読みました。滋岡家最後の神主です。
これを見ると従長の時代には経済的に苦しかったのでしょう。
F-23 正面には「秋●● 瑶台院 ●●●」とあり
側面に 「滋岡分家 神原家 実子 菅原長全建之」
神原は滋岡の前の神主の家系ですが既に途絶えていて、名目上のものです。
天満宮研究では、瑶台院は長房の妻だそうです。
享和二年三月没 瑶台院心月理鏡大姉
ところが長房自身の墓は寒山寺だそうです。
長全は長房の長男で明和六年十二月廿八日生まれ
享和元年従六位下
同年三月廿六日神原姓で分家
母瑶台院の亡くなるのと同時です。
ここまで滋岡一族の墓について書いていて、ようやく気が付きました。
なぜ祀る人がいないのだろう?
ヒントは「大阪天満宮御文庫のこと」にありました。
滋岡一族は従長が亡くなる大正4年まで神主でしたが、その後は現在まで寺井氏が宮司をしています。
従長の孫の長平は住んでいた東京で平成17年に88歳で亡くなっています。
尤もそれよりはるか以前から墓は放置されていたのでしょう。墓石の荒廃が物語っています。
実は、私の家の墓も将来そうなるかもとアキラメております。
墓守りをできなくなる理由は容易に想像できます。
2014/11/10 追記 墓石の調査を続けていて寺井氏の墓も見つけました。
さらに滋岡家とも関わりのありそうな渡邊一族・大道一族なども。
なぜそれらが無縁墓となったか、あなたも考えてください。